韓定食

2008年6月14日土曜日

ブログ移転のお知らせ

ブログを移転することにしました。
その理由は、
1、もっと分かりやすく書き直したい。
2、もっと大きな写真を載せたい。
3、グーグルのブロガーはタイトルの一覧表示ができない。
4、ブロガーは改行が正常にできなくなる時がある。
5、楽天ポイントがANAマイルに移行できると知った。(笑)

そんな訳でこちらに移行します。
http://plaza.rakuten.co.jp/kanteishoku800/

当分は旧ネタの手直しが中心ですが、新ネタもなるべく書こうと思います。
今後もよろしくお願いします。

2008年5月26日月曜日

息をするように嘘をつく人



この写真は朝鮮戦争時に、文氏が弟子の朴正華氏を背負って避難した時の写真だとして、文氏の過去を美化して紹介する「主の路程」の講義などで使われてきた写真です。

朝鮮戦争当時をテーマにした写真展で、文氏が大勢の弟子の前で「これは私が朴正華を背負って逃げた時の写真だ」とホラを吹いた時、朴正華氏は違うと知りながらも、弟子達の前で師に恥をかかせない為に肯定したそうです。

後日、写真を拡大して見ると別人であることが判明して、この写真は使われなくなりました。


私は二日間、日本で一六〇〇双を約婚してあげてきました。十二時間半で全部組み合わせてあげました。そうだとしても、でたらめに目をつぶってしたのではありません。性格を合わせ、後孫と一生を見て決定しました。先祖を見て寿命まで計算して、死ぬしかない立場でも、二人が一つになる時その死を免れるように相手を組み合わせたのです。風がぶつかり合えば、零点になるのと同じです。このような内容を知って組み合わせてあげるので、先生が合わせた相対が、各自が選んだ相手よりも勝るというのです。

(祝福家庭と理想天国(1))


統一協会の組織が大きくなり、合同結婚式の規模も大きくなると、写真によるマッチング祝福になりました。



文氏は候補者の写真を見ただけで性格、後孫、先祖、寿命まで分かると誇大宣伝していました。

私も当時は信じて疑いませんでした。(笑)

写真を見ただけで性格や先祖が分かる人が、自分や弟子と赤の他人の区別はつかなかったそうです。

2008年5月18日日曜日

若者は幻を見、老人は夢を見る

有田芳生の『酔醒漫録』より引用します。http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/cat6522749/index.html

2008/01/08〈速報〉統一教会、政界進出へ 
統一教会の文鮮明教祖が「爆弾宣言」を行った。幹部も驚く指示に組織は大騒ぎになっている。4月に行なわれる国会議員(一院制で解散はない)選挙に「家庭堂の議員を何百人も擁立しなさい」というのだ。 韓国の統一教会本部は組織を上げ、全面的に準備をはじめた。文教祖は「家ごとに聖酒を飲ませればそれで全てうまくいく。みんな家庭堂に票を入れるよ」と語っているようだ。郭錠煥・元会長は「勝ち目のない戦いだ。大変なことになった」と嘆いている。そうはいっても教祖の指示。統一教会では国民的聖酒式の準備を進めている。全面的に政治活動を行うとの方針で2月から実際に動き出すという。

世界的に恐ろしい軍隊があるとしたら、恐ろしいほど訓練された軍隊である。素晴らしい軍隊があるとしたら、素晴らしいほど訓練された軍隊である。それ以外にはない。例外はない。実践には例外がない。奇跡ということは例外の例外であって、それは、一時あった場合には千年の穴があく。我々はそれを知っている。 訓練が必要である。でたらめな訓練ではない。計画的であり、科学的であり、理論的であり、実践的な計画の訓練が必要である。
 (「一心不乱 一生懸命」一九七三年七月八日 東京 東京教会)

奇跡を起こせば千年の穴が開く(穴を埋める為に甚大な苦労が必要になるとの意味)と言って、奇跡を願わずに、計画的であり、科学的であり、理論的であり、実践的な計画が必要と言ってきた文氏が、「家ごとに聖酒を飲ませればそれで全てうまくいく。みんな家庭堂に票を入れるよ」と奇跡を願いました。

2008/01/14 文鮮明教祖の目標は40議席 
4月に行われる総選挙に候補者を立てよと指示した統一教会の文鮮明教祖。1月6日には全世界の韓国牧会者全員(4000名以上)に集合命令があった。家庭党からの立候補予定者は210人。7日に選挙区ごとの候補者がくじ引きで決まり、8日にはマリオットホテルにおいて出陣式が行なわれた。日本で牧会(注、信徒を導く仕事)を担当していた250人のなかの約50名も韓国の故郷に戻り選挙活動を行なう。文鮮明教祖は「神から早く天一国(神の国)を建設せよとの要請、催促がある」から家庭党として総選挙に立候補すると語っている。目標は40議席。韓国での新しい動きが日本にも波及している。続報でお知らせする。

ルカ17章
20)神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
21)また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

統一協会は政治によって「神の国」建設を目指し、イエス様は「神の国は、見られるかたちで来るものではない。・・・神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と言われました。
どちらの思想が正しいのでしょうか?
 
そして奇跡を願った文氏への報いは、当事者にとっては千年の穴に匹敵するほど残酷な現実でした。

2008/03/17〈速報〉統一教会教祖の長男が逝去 
統一教会の文鮮明教祖の長男が韓国の漢南洞で亡くなったとの情報が入った。倒れている孝進氏が発見されたのは今朝9時半ごろ。心臓発作を起したと伝えられている。ドラッグにおぼれ、アルコール依存症だった。治療のためアメリカから韓国に戻っていたときの不幸だ。教祖の後継者としての可能性はなかったので、組織への影響はない。しかし、こうした事態を4月9日の総選挙に向けての内部結束に利用する可能性は高い。昼過ぎの情報は以上。詳細が入ればさらにお伝えしたい。

こうした事態を4月9日の総選挙に向けての内部結束に利用する可能性は高い。
↓↓↓

昨日、うちの母親から電話があったんですが今回の孝進ニムの昇華に関する内容で「孝進ニムの昇華に関する悔い改めの再出発って事で、全祝福家庭は40kが義務らしいよ~。それが出来ないところは祝福家庭とは認めてもらえないって事らしい」と話していました。http://blogs.yahoo.co.jp/yukitti000/35439404.html

転んでもタダでは起きないのが統一協会です。献金要請のネタに利用できるものは何でも利用します。
そしていつもの事ですが、悪い事は何でも日本人のせいにします。
在韓の日本食口が活動しない為に孝進が亡くなったと言われたそうで、それを真に受けた日本の姉妹が選挙活動をしたそうですが・・・。

2008/04/08〈速報〉韓国総選挙で統一教会の日本人信者3人逮捕!
9日に投票される韓国総選挙で統一教会の日本人信者3人が逮捕されたようだ。詳細は情報が入り次第続報する

2008/04/08〈続報〉統一教会信者の逮捕その後
現地からの情報では、市場の前で選挙活動を行っていたという。「非拘束で立件」とのことで、以下の記事にあるように日本的にいえば「書類送検」だ。「世界平和統一家庭堂」そのものが知られていないけれど、もしかすれば比例区で当選者が出るかもしれないという。投票は明日。時事通信の配信でこういう記事がある。
選挙法違反で日本人3人送検=韓国【ソウル7日時事】韓国警察は7日、南東部の馬山市で総選挙に出 馬している候補の選挙運動をしたとして、日本人女性3人を公職選 挙法違反容疑で書類送検した。地元警察によると、3人は世界基督 教統一神霊協会(統一教会)の信者で、韓国人男性と結婚し同国に 居住。公職選挙法は外国人による選挙運動を禁じているが、3人は 統一教会系の政党から出馬した候補の選挙運動をしていた。

法律はきちんと守りましょう。

総選挙の暫定投票率46%、歴代で最低 - KBS WORLD Radio
今回の総選挙の暫定投票率は、中央選挙管理委員会が当初予想していた50%台前半を下回る46%になって50%を割り込み、歴代で最低の投票率となりました。これはこれまで行われた総選挙のうち最低投票率となった8年前の第16代総選挙の57.2%に比べて11.2ポイントも低くなりました。これについて中央選挙管理委員会の関係者は「政党が公認候補を決めるのに時間がかかって有権者が候補を認識する期間が短かったうえ、候補者間の政策の論争が乏しかった。また投票日の天気が悪かったことも投票率の低下に影響した」と分析しました。投票率を地域別にみますと、済州道が53.5%で最も高かったのに対して、仁川広域市は42.2%と最も低くなりました。
http://rki.kbs.co.kr/japanese/news/news_detail.htm?No=30549

組織基盤の弱い政党が勝利する為には、選挙当日の天気はとても重要です。
晴れだと遊びに行くし、雨だと外出しないし、曇りの日が最も多くの浮動票を取り込めるのですが・・・。
当日の天気は雨で史上最低の投票率だったそうで、自称救世主の老人の夢はお天気にも見放されました。

2008年4月25日金曜日

こんな礼拝どうでしょうか?

人類歴史の目的はメシヤを迎えることであり、そのためのメシヤを迎える国が必要でした。そこで韓半島が準備されましたが、再臨主を迎える1917年から1930年の期間は日帝時代であり、世界地図には韓国という国がなかったのです。
それでメシヤを迎えるためには日本から独立したという基準が必要であり、1919年3月1日、柳寛順という16歳の少女と愛国者33名が先頭に立って太極旗を掲げて独立万歳を叫びました。しかし胎中期間が十月十日かかるため、その間太極旗を降ろすことのできない命がけの期間だったわけです。そして1920年1月6日、お父様が誕生されました。この期間は韓国の国と国民が犠牲となってメシヤを生み出した期間であり、その時拷問を受け処刑された人たちが独立の公臣となっています。その時の同時性が2007年3月1日から始まった路程でした。この期間は柳寛順精神で何があっても出産しなければならない期間だったのです。そして私たちを公臣家庭として天が記憶して下さる。ただ、出産があまりにも大変だったため、産後の100日がとても重要となりました。この期間、特別な精誠が必要であり、100日目が4月9日です。
今年はねずみ年、ねずみは繁殖力が強いので、伝道の年です。ねずみ算式に増えます。だからどんどん伝道しないといけません。そして来年はうし年、うしはじっとしている、教育の象徴です。ねずみの時はたくさん走らないといけません。そしてたくさん伝道して来年はじっくり教育する、そうして確実な基盤をつくっていく。来年走り出しても遅いです。

(聖日礼拝 「2008年の摂理的意義」 3月16日 釧路教会)
http://s01.megalodon.jp/2008-0422-2230-02/www.uc-kushiro.com/article.php?story=20080325132923718

1919年3月1日、柳寛順という16歳の少女と愛国者33名が先頭に立って太極旗を掲げて独立万歳を叫びました。しかし胎中期間が十月十日かかるため、その間太極旗を降ろすことのできない命がけの期間だったわけです。そして1920年1月6日、お父様が誕生されました。

文氏が生まれたのは陰暦の1920年1月6日、陽暦では1920年2月25日生まれですから、十月十日にはなりません。
明らかなこじつけです。

出産があまりにも大変だったため、産後の100日がとても重要となりました。この期間、特別な精誠が必要であり、100日目が4月9日です。

産後ですから2月25日から100日?1月6日から100日?いつから数えて100日なのでしょうか?
これもこじつけですが、4月9日の選挙は大敗でしたね。

今年はねずみ年、ねずみは繁殖力が強いので、伝道の年です。ねずみ算式に増えます。だからどんどん伝道しないといけません。そして来年はうし年、うしはじっとしている、教育の象徴です。

最近の統一協会では干支も信仰するのでしょうか?
「宗教統一」とは「ごちゃ混ぜのいいとこ取り」のことですか?

疲労と睡眠不足でウトウトしている頭に、信頼する教会長様の説教ですから、何の疑いも持たずに聞いていられるでしょうが、文字にするのは問題があります。
私も純粋に信じていた過去がありました。(笑)
4月1日限定の礼拝なら問題はないのですが・・・。

2008年2月23日土曜日

nickさんへの反論

スズランさんのブログに、私の書いた「再臨主は1920年生まれか?(同時性再臨論の嘘)」に対する、批判コメントがありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/chiyoko3428/22908328.html

批判の主は 「nick_marekko_yonihabakaru」さんです。
http://blogs.yahoo.co.jp/nick_marekko_yonihabakaru

私のブログに直接、批判のコメントをしないあたりが何とも・・・。(笑)
まあ一応反論しておきます。


エジプト苦役時代を400年間とするのは誤りで、470年間であるとの主張を読みました。
それは、エジプトを出るまでが、430年という聖句があるのと、エジプトを出てから40年間、荒野をさまよったからと言われています。
私は、エジプト苦役時代を400年間とみることに、問題は感じません。
一つには、そこでも言われているように400年間としている聖句もあること。
また、400年間という意味は、40数のサタン分立の条件を成立させるための期間であり、その時代の意味が400年である事実は変わらないと思うからです。
モーセは、エジプトを出発する前に40年間、ミデアン荒野で暮らします。
これは、モーセが、自分の同胞であるユダヤ人が、エジプト人に虐待されているのに憤激して、そのエジプト人を殺したのですが、それで、ユダヤ人たちが、モーセを仲間と考えれば、そこで、出エジプトの道も天は用意されていたようですが、天の願いとは反対に、モーセを告発するようなことをしたので、モーセは、逃げざるを得なかったのです。
また、エジプトを出た、ユダヤ民族が40年間も荒野をさ迷ったのも、はじめからの天の願いではなく、ユダヤ民族の不信のためでした。
とくに、カナン偵察の40日間を、不信の報告をした10名にユダヤ民族が同調するようになったので、信仰的に報告をしたヨシュアとカレブを除く、エジプトから来た全ユダヤ人のおとなたちは、皆、荒野で死ぬようになったのです。
そのように、不信のゆえに、延長されたり、蕩減期間をさらに歩んだりしていますが、摂理の意味からは、400年間のサタン分立の期間であるので、エジプト苦役時代を、400年としている聖句もあるのですし、その期間を、400年間として、同時性を考えるは、根拠があると思います。
(2008/2/16(土) 午前 3:04 [ nick_marekko_yonihabakaru ])

nickさんの(原理の)解釈のように、出エジプト以前の期間を「エジプト苦役400年」だとすると、大きな矛盾が生じます。

創世記15章
13)時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。

この聖句の「400年」は予告です。

出エジプト記12章
40)イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。
41)四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。

ヨシュア記5章
6)イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。
これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、彼らに見させないと誓われたからである。

この聖句の「430年+40年」は結果です。
原理講論では「430年+40年」を無視しており、nickさんも触れていません。
しかし「400年」の予告と「430年+40年」の結果には深い意味があります。

創世記37章以下を読むと、ヤコブの息子ヨセフは17歳の時に見た夢の話から、兄弟達に憎まれるようになり、イシマエル人に売られエジプトに入ります。
パロの役人で侍衛長であったエジプト人ポテパルに気に入られますが、ポテパルの妻に逆恨みされて牢獄に入れられます。
そしてパロが見た夢を謎解き、7年の豊作の後7年の飢饉があるので備えるように進言し、エジプトの宰相に任じられます。

創世記41章
32)パロが二度重ねて夢を見られたのは、この事が神によって定められ、神がすみやかにこれをされるからです。
33)それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。
34)パロはこうして国中に監督を置き、その七年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、
35)続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。
36)こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。
37)この事はパロとそのすべての家来たちの目にかなった。
38)そこでパロは家来たちに言った、「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」。
39)またパロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。
40)あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。
41)パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」。
42)そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、
43)自分の第二の車に彼を乗せ、「ひざまずけ」とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした。
44)ついでパロはヨセフに言った、「わたしはパロである。あなたの許しがなければエジプト全国で、だれも手足を上げることはできない」。
45)パロはヨセフの名をザフナテ・パネアと呼び、オンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻として彼に与えた。ヨセフはエジプトの国を巡った。
46)ヨセフがエジプトの王パロの前に立った時は三十歳であった。ヨセフはパロの前を出て、エジプト全国をあまねく巡った。
47)さて七年の豊作のうちに地は豊かに物を産した。

7年の豊作の後、飢饉が起こり、エジプトに食料を買いに来た兄弟と再会し、身分を明かします。

創世記45章
4)ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしに近寄ってください」。彼らが近寄ったので彼は言った、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。
5)しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。
6)この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。

9)あなたがたは父のもとに急ぎ上って言いなさい、『あなたの子ヨセフが、こう言いました。神がわたしをエジプト全国の主とされたから、ためらわずにわたしの所へ下ってきなさい。
10)あなたはゴセンの地に住み、あなたも、あなたの子らも、孫たちも、羊も牛も、その他のものもみな、わたしの近くにおらせます。
11)ききんはなお五年つづきますから、あなたも、家族も、その他のものも、みな困らないように、わたしはそこで養いましょう』。

ヨセフがエジプトの宰相になってから7年の豊作と2年の飢饉の後、ヤコブの家の70人は宰相ヨセフの下を訪ねて、裕福に暮らし始めます。

創世記46章
27)エジプトでヨセフに生れた子がふたりあった。エジプトへ行ったヤコブの家の者は合わせて七十人であった。

創世記47章
11)ヨセフはパロの命じたように、父と兄弟たちとのすまいを定め、彼らにエジプトの国で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。
12)またヨセフは父と兄弟たちと父の全家とに、家族の数にしたがい、食物を与えて養った。
13)さて、ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく、エジプトの国もカナンの国も、ききんのために衰えた。
14)それでヨセフは人々が買った穀物の代金としてエジプトの国とカナンの国にあった銀をみな集め、その銀をパロの家に納めた。
15)こうしてエジプトの国とカナンの国に銀が尽きたとき、エジプトびとはみなヨセフのもとにきて言った、「食物をください。銀が尽きたからとて、どうしてあなたの前で死んでよいでしょう」。
16)ヨセフは言った、「あなたがたの家畜を出しなさい。銀が尽きたのなら、あなたがたの家畜と引き替えで食物をわたそう」。
17)彼らはヨセフの所へ家畜をひいてきたので、ヨセフは馬と羊の群れと牛の群れ及びろばと引き替えで、食物を彼らにわたした。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えた食物で彼らを養った。
18)やがてその年は暮れ、次の年、人々はまたヨセフの所へきて言った、「わが主には何事も隠しません。われわれの銀は尽き、獣の群れもわが主のものになって、われわれのからだと田地のほかはわが主の前に何も残っていません。
19)われわれはどうして田地と一緒に、あなたの目の前で滅んでよいでしょう。われわれと田地とを食物と引き替えで買ってください。われわれは田地と一緒にパロの奴隷となりましょう。また種をください。そうすればわれわれは生きながらえ、死を免れて、田地も荒れないでしょう」。
20)そこでヨセフはエジプトの田地をみなパロのために買い取った。ききんがエジプトびとに、きびしかったので、めいめいその田畑を売ったからである。こうして地はパロのものとなった。
21)そしてヨセフはエジプトの国境のこの端からかの端まで民を奴隷とした。

創世記50章
26)こうしてヨセフは百十歳で死んだ。彼らはこれに薬を塗り、棺に納めて、エジプトに置いた。

30歳で宰相になったヨセフは40歳ごろから、父と兄弟達と暮らし始めます。
ヨセフが110歳で亡くなるまでの約70年間、イスラエルの一族はエジプトの国で最も良い地、ラメセスの地を所有して暮らし、飢饉が非常に激しく、全地に食物がなく、エジプトの国もカナンの国も、飢饉のために衰えた時も、食べるものに不自由はなく、エジプト人を奴隷にさえしたのです。
エジプト人を奴隷にしたのですから、この70年は「苦役時代」とは言えません。
しかしその後、ヨセフのことを知らない新しい王が即位して立場は逆転します。

出エジプト記1章
5)ヤコブの腰から出たものは、合わせて七十人。ヨセフはすでにエジプトにいた。
6)そして、ヨセフは死に、兄弟たちも、その時代の人々もみな死んだ。
7)けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった。
8)ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。
9)彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。
10)さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。
11)そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。

nickさんの解釈のように、イスラエル民族が移住してから、モーセがエジプト人を殺してミデヤンに逃げた時までの390年間を「エジプト苦役400年」と考え、その後のミデヤン40年や荒野40年は延長路程だから関係ないとするならば、エジプト人を奴隷にして誰よりも良い生活をした70年間は、とても「苦役」とは言えませんから、エジプトでの「苦役時代」は320年になります。
それでは神様の予告とは異なります。

聖書を読めば、イスラエル民族が移住してから出エジプトまでは430年で、エジプト人を奴隷にして誰よりも良い生活をした70年を除くと、エジプトでの苦役は360年になります。

では荒野をさまよった40年間を考えましょう。
モーセが十戒を授かったシナイ山、そしてシナイ荒野は、現実にはエジプトの国土の一部でした。
その付近には、トルコ石など原石の採掘場が多くあり、古くからエジプトの支配下でした。
当時のシナイ山周辺がエジプトの神々の勢力圏だったことは、聖書にも書いてあります。

出エジプト記32章
1)民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。
2)アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。
3)そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。
4)アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。

エジプトでは、牛は神の化身として篤く信仰されていたのです。

まとめてみます。
イスラエルの人々がエジプトに住んでいたのが430年。
エジプトの勢力圏のシナイ山付近で苦しんだのが40年。
そこからエジプトの最も良い地で裕福に暮らした70年を引きます。
430+40-70=400年

神様の予告どおり、アブラハムの子孫は他の国に旅びととなってから、400年間悩まされました。
そしてイスラエル民族がエジプトに入ってから、約束されたカナンの地に入るまでは470年でした。
「400年」の予告は「430年+40年」かけて成し遂げられました。
「430年+40年」を最初から無かったようにごまかして、都合よく数合わせする原理の解釈には説得力がありません。


次に、ローマ帝国の迫害時代について書いており、国教になる以前から、教会建設ラッシュとか書かれておりました。
また、いろいろ歴史的な内容を書かれており、かなり勉強されているようにも思えるのですが、それにしては、360年に統一ローマの皇帝に即位したユリアヌス二世のことに触れられていないことに大きな疑問を感じています。
彼は、キリスト教への特権を廃止し、多神教などの伝統宗教の復興を目指しました。
キリスト教徒からは、背信者と呼ばれてもいます。
かれは、優秀な皇帝であったいう評価が多いですが、363年に戦死します。
韓定食さんのブログでは、330年頃から、キリスト教を皇帝が支持し、教会建設を命じたと書いていますが、それは、実際は嘘であるわけです。
嘘八百と自分でいいながら、自分が嘘八百を言っているという矛盾です。
おそらく、後半も同様ではないかと思うのですが、とりあえず、ここまで、読むと、彼の主張には根拠が弱いか、トリックを使っていることが分かります。
(2008/2/16(土) 午前 3:04 [ nick_marekko_yonihabakaru ])


nickさんが自分で紹介したように、ユリアヌスは「背教者」と呼ばれました。何故でしょうか?
彼の前の皇帝達も、彼の後の皇帝達もキリスト教を保護したからです。
キリスト教徒から「大帝」と呼ばれたコンスタンチヌスの時代から、50年以上続いたキリスト教会の税金優遇の特権を、ユリアヌスは廃止しました。
それで「背教者」と呼ばれたのですが、キリスト教徒を迫害したわけではありませんでした。
彼の帝位はわずか3年であり、彼の死後はキリスト教会の特権も復活しました。
キリスト教が400年迫害されたと信じるのに、ユリアヌスだけでは根拠が弱すぎます。

コンスタンチヌス大帝の325年頃から教会建設ラッシュが始まり、サン・ピエトロ大聖堂が330年頃に着工されたのは、検索すればわかることですが、私のことを「嘘八百」と言う前に、なぜ自分で調べないのでしょうか?

おそらくnickさんは原理(教義)と現実が異なる場合には、現実から目を背けて、原理だけを信じてきたのでしょう。
nickさんの頭の中では長い間「ローマ帝国迫害時代四〇〇年」が“真実”だったので、サン・ピエトロ大聖堂が330年頃に着工されたなどと、原理を否定する私は「嘘八百」で、「嘘八百」の意見などは検索して調べてみる価値さえ認めないのでしょう。

そのように偏った価値観だから、後半を読まないうちから「後半も同様(嘘八百)ではないか」などと言うのでしょう。
それとも後半には突っ込めなかったので、「読んでないけど、どうせ嘘八百でしょう」と印象操作するトリックですか?
その無責任な発言からは、清平でも直らないnickさんの人間性(堕落性)が感じられて、とても嬉しいです。

今でも教祖を信じ続けるオウム信者や、摂理信者と同様に、nickさんも勇気をもって現実を直視することが必要です。

2008年1月7日月曜日

再臨主は1920年生まれか?(同時性再臨論の嘘)

私が原理を信じたきっかけの一つが同時性再臨論でした。

第三節 復帰摂理時代を形成する各時代とその年数
(一)エジプト苦役時代四〇〇年
(二)士師時代四〇〇年
(三)統一王国時代一二〇年
(四)南北王朝分立時代四〇〇年
(五)ユダヤ民族捕虜および帰還時代二一〇年
(六)メシヤ降臨準備時代四〇〇年

第四節 復帰摂理延長時代を形成する各時代とその年数
(一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年
(二)教区長制キリスト教会時代四〇〇年
(三)キリスト王国時代一二〇年
(四)東西王朝分立時代四〇〇年
(五)法王捕虜および帰還時代二一〇年
(六)メシヤ再降臨準備時代四〇〇年
(原理講論 後編 第三章より)

「なぜ歴史は繰り返すのか? これは難しい問題のようですが、実は理論的に理解することができるのです。」
「ユダヤ教の歴史をキリスト教が反復しているという驚くべき事実」
「神の選民としての使命を持っていたイスラエルがイエスを救世主として受け入れずに十字架で処刑してしまったために、紀元後の歴史はイスラエルに代わる神の選民としてキリスト教を編成して拡大し、イエス(救世主)の「再臨」をめざして『もう一度、歴史をやり直そうとしている!』という驚くべき神の計画(摂理)が人類史の背後に存在する。」

<人類史の大真実>より
http://www.chojin.com/main.html

同時性再臨論は上記のように誘導します。
BCの時代(原理では「復帰摂理時代」)、ヤコブ(イスラエル)達がエジプトに入ってから、イエス様が降臨されるまでの期間を400+400+120+400+210+400=1930年と教えます。
そして同様にADの時代(原理では「復帰摂理延長時代」)、イエス様から400+400+120+400+210+400=1930年前後に再臨の主が現れると教えます。
そしてこの歴史の秘密を紐解いた人、1920年生まれで、少年期にキリスト教に改宗した文鮮明氏こそが再臨主だと教えます。

しかし旧約聖書にはこう書いてあります。

出エジプト記12:40~41
イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。
四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。

申命記 29:5 
わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。

ヨシュア記 5:6 
イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、彼らに見させないと誓われたからである。

旧約聖書では、イスラエルの人々がエジプトに住んでいたのは430年で、モーセが荒野でイスラエルの民とさまよったのは40年ですから、イスラエル民族がエジプトに住み始めてから、エジプトを出てカナンに入るまでは470年です。

しかし同時性再臨論は、あくまでも文氏を再臨主だと証明するのが目的ですから、イスラエル民族がエジプトに住み始めてからイエス様降臨までが、470+400+120+400+210+400=2000ではまずいのです。
それで誰が悪知恵を働かせたのか、こちらの聖句を強調します。

創世記 15:13 
時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。

創世記の聖句から「400年」を持ち出して、「エジプト苦役時代四〇〇年」と偽ります。

エジプト苦役時代には、ヤコブとその十二子息を中心とした七十人家族がエジプトに入ってきて、それ以来、その子孫たちは四〇〇年間、エジプト人たちによって悲惨な虐待を受けたのであった。
(原理講論 後編 第四章 第一節より)

モーセの使命を継承したヨシュアが、イスラエルの選民を導いてカナンの地に入ったのち、オテニエル士師をはじめとした、十二士師のあとに引き続いて、サムソン、エリ、サムエルに至るまで、合わせて十五士師が、イスラエルを指導した四〇〇年間を、士師時代というのである。
(後編 第四章 第二節より)

聖書の権威を利用して、聖書から引用していると思わせ、別の聖句を持ち出し、エジプト苦役時代400年の後に士師時代400年があったと教え、400+400+120+400+210+400=1930と捏造することで、1920年生まれで、少年期にキリスト教に改宗した文鮮明氏こそが再臨主だと教えます。

それまで聖書と無縁だった私はこのペテンにすっかり騙されました。

ADの時代を原理では「復帰摂理延長時代」と言い、ユダヤ教の歴史をキリスト教が反復していると教えます。これにも多くの捏造があります。

ユダヤ民族が、イエスを生きた供え物としてささげる献祭において、失敗したために成し遂げられなかった「信仰基台」を蕩減復帰するために、キリスト教信徒たちにも、エジプト苦役時代のような時代がくるようになったのである。この時代がすなわち、ローマ帝国迫害時代の四〇〇年であったのである。ローマ帝国の過酷な迫害が終わって、コンスタンチヌス大帝がキリスト教を公認したのが西暦三一三年であり、テオドシウス一世がキリスト教を国教として定めたのが西暦三九二年であった。それゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、イスラエル民族のエジプト苦役時代の四〇〇年を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代に相当するのである。
(後編 第三章 第四節(一)ローマ帝国迫害時代四〇〇年より)

元々ローマ市民はギリシア神話そっくりのローマ神話の神々を信じていました。町にはユピテル(ゼウス)、アポロ(アポロン)、ビーナス(アフロディテ)等の神々の像が祭られていました。
ローマ皇帝コンスタンチヌス1世(大帝、在位306年 - 337年)が311年にキリスト教寛容令、313年に信仰公認令(ミラノの勅令)を出すと、キリスト教は帝国の最大宗教になります。
この頃皇帝の命令で、国費を投じて教会の建設ラッシュが始まりました。

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂はコンスタンティヌス帝が、312年に建築した世界で初めての本格的なキリスト教聖堂。




エルサレム聖墳墓教会は325年頃、イエス・キリストの磔刑の場所ゴルゴタに建てられました。




サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は聖パウロの墓の上に建てられました。





サン・ピエトロ大聖堂は330年頃に着工され、390年頃までに完成しました。





皇帝自身も335年に洗礼を受けますが、教会の諸活動を支える経費をまかなう為に、農地や工場や商店が教会に寄進されました。
当初は聖職者のみ無税でしたが、教会関係の商店なども税の優遇を受けるようになり、ローマの重税から逃れる為、生活の為にキリスト教徒に改宗する者も多く現れ、かつてのローマ神話の神々の裸像は次々に壊され始めました。
そして392年、キリスト教が国教になると他の宗教は認められなくなります。
以上の様に皇帝自身がキリスト教を支持し、教会建設を命じた時代を、「迫害時代」と言えるでしょうか?
「ローマ帝国迫害時代四〇〇年」は、明らかに歴史の捏造です。


・・・彼ら士師たちは、次の時代において分担された預言者と祭司長と国王の使命を、すべて兼任していたのであった。それゆえに、ユダヤ教の封建社会は、このときから始まったのである。このような士師時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する時代である新約時代の教区長制のキリスト教会時代においても、教区長たちは、キリスト教信徒を指導するという面において、士師のそれに該当する職分を帯びていたのである。
・・・教区長は、このような霊的な王国建設において、士師と同じ使命をもっていたので、ときには、預言者にもならなければならず、あるときには、祭司長の役割を、そして、またあるときには、教区を統治する国王のような使命をも果たさなければならなかったのである。
・・・教区長制キリスト教会時代においても、キリスト教は、サタンの世界であるローマ帝国から解放されてのち、四世紀に、蒙古族の一派であるフン族の西侵により西ヨーロッパに移動してきたゲルマン民族に、福音を伝えることによって、西ヨーロッパの新しい土地で、ゲルマン民族を新しい選民として立て、キリスト教封建社会の土台を形成したのであった。

(後編 第四章 第二節 士師時代と教区長制キリスト教会時代より)

原理では教区長と言ってますが、大司教(教皇)の事です。大司教は教会を維持する為の農場や工場や商店を寄進され、しかも無税だったので大貴族のような世俗権力者でもありました。395年にローマ帝国が東西に分裂すると、東の四人の大司教は東ローマ皇帝の下に置かれます。

西ローマ帝国が476年に滅亡するとローマ教皇はゲルマン民族に布教します。フランク王国の建国は481年で、異端と言われたアリウス派から国王自身が正統のアタナシウス派に改宗(496年)し発展します。

6世紀~7世紀にかけてサーサーン朝ペルシアやイスラム帝国によりアンチオキア、エルサレム、アレキサンドリアが奪われると、残ったローマ(西方教会)とコンスタンチノーブル(東方教会)の両教会間の勢力争いが始まることになります。

原理では、教区長は士師と同じ使命をもっていたので、預言者、祭司長、そして教区を統治する国王の使命を果たさなければならなかったと言いますが、教皇や大司教は、国のトップである皇帝や国王の下にいたのですから、事実とは違います。

教皇が「教区を統治する国王のような使命を」果たしたのは、ピピン3世が754~755年にイタリアに出兵し、教皇のためにロンバルド族を討伐し、ロンバルドから奪い取ったラヴェンナ地方を教皇に寄進した(ピピンの寄進)755年以降の事です。

また原理では800年から「キリスト王国時代」が始まると歴史を歪曲していますが、フランク王国は496年ごろからキリスト教王国ですから、「教区長制キリスト教会時代四〇〇年」も明らかに歴史の捏造です。


復帰摂理時代において、イスラエル民族が、サウル王を中心として、初めて国王を立てたのち、ダビデ王を経てソロモン王に至るまで一二〇年間の統一王国時代があった。したがって、この時代を蕩減復帰するために、西暦八〇〇年チャールズ大帝が即位したのち、後日、彼の王統が絶えて、選挙王制となり、九一九年ヘンリー一世がドイツ王位につくまで一二〇年間にわたるキリスト王国時代がくるようになったのである。ゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、統一王国時代の一二〇年を実体的な同時性として、蕩減復帰する時代に相当する。

(後編 第三章 第四節(三)キリスト王国時代一二〇年より)

チャールズ大帝がフランク王に即位したのは768年です。800年には、ローマ教皇レオ3世から、かつて滅亡した西ローマ皇帝の帝冠を与えられ、形式上は西ローマ皇帝に即位しました。

「法王レオ三世は、紀元八〇〇年に、チャールズ大帝を祝福して、金の王冠をかぶらせることにより、彼を第二イスラエル選民の最初の王として立てたのであった。」(後編 第四章 第三節より)

フランク王国は496年ごろからキリスト教王国ですが、原理ではこの時から「キリスト王国」が始まるそうです。フランク王国は843年のヴェルダン条約により、ルイ1世の死後三子が抗争、王国を三分しました。

①中部フランク・北イタリア(ロタール1世)875年にカロリング朝断絶、その後のイタリア

②東フランク(ルードヴィヒ2世)911年にカロリング朝断絶、その後のドイツ

③西フランク(シャルル2世)987年にカロリング朝断絶、その後のフランス

http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-hina/tyuu-2.htm

800年から始まった王国(笑)は「3代43年」で三国に分裂したので「キリスト王国時代120年」は明らかに歴史の捏造です。

しかし原理では三分した中で東フランクのカロリング朝が「7代110年」続いたのに目を付けます。

「彼の王統が絶えて、選挙王制となり、九一九年ヘンリー一世がドイツ王位につくまで一二〇年間にわたるキリスト王国時代がくるようになったのである。」
(後編 第三章 第四節より)

東フランク<カロリング朝>

カール(チャールズ)大帝(768年 - 814年) 
ルートヴィヒ(ルイ)1世 (814年 - 840年)
ルートヴィヒ2世 (843年 - 876年)
カールマン (876年 - 880年)
カール3世 (肥満王) (876年 - 887年)
アルヌルフ (887年 - 899年)
ルートヴィヒ4世(幼童王) (899年 - 911年)

<フランケン朝>

コンラート1世(911年 - 919年)

<ザクセン朝>

ハインリヒ1世(919年 - 936年)
オットー1世(936年 - 962年)※962年をもって神聖ローマ皇帝兼ドイツ王(東フランク王)

http://classic.music.coocan.jp/etc/deutschland/roman-emp.htm

東フランクではチャールズ大帝の王統(カロリング朝)が絶えたのは919年ではなく911年ですから、これも小さな捏造です。
ちなみに西フランクのカロリング朝は987年まで続きます。(笑)

「3代43年」と「8代119年」をミックスして、いかにも「3代120年」の同時性の時代があったかのように捏造していますが、ペテンそのものです。


復帰摂理時代における統一王国時代に、神殿が摂理のうちで建てられなかったので、この王国が南朝と北朝に分裂され、四〇〇年間の南北王朝分立時代がくるようになった。ゆえに、復帰摂理延長時代においても、この時代を蕩減復帰する時代がなければならない。これが、すなわち、キリスト王国時代が過ぎたのち、西暦一三〇九年に、法王庁が南仏アヴィニョンへ移されるまでの、東西王朝分立時代四〇〇年であったのである。キリスト王国が分裂した当初は、東・西フランクとイタリアの三王朝に分立されていたが、イタリアは、東フランクを継承した神聖ローマ帝国の支配のもとにあったので、事実上、東西に両分されたと同様であった。ゆえに、この時代は形象的同時性の時代のうち、南北王朝分立時代の四〇〇年を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代に当たるのである。

(後編 第三章 第四節(四)東西王朝分立時代四〇〇年より)

フランク王国は843年に三分した後、イタリアではルイ2世(ロタール1世の子)の死によってカロリング家が断絶。(875)その後、諸侯や都市が分立し、北イタリアは東フランクやビザンツの介入を受け、南イタリアはイスラムやノルマン人の侵入を受け、オットー1世が神聖ローマ皇帝になる962年までは、王や諸侯が乱立する分裂状態に陥りました。

なお分裂した一方の西フランク(フランス)は、滅亡するどころか、今日まで繁栄して、フランク以外のキリスト教国家(イングランド、スペイン、ビザンツ・・・)も多数存在したので、「東西王朝分立時代400年」も明らかな歴史の捏造です。


以上のように同時性再臨論はよくできた屁理屈であり、悪質なペテンです。
聖書を読まない人、世界史に詳しくない人、他人の言葉をすぐ信用する人は騙されます。(もちろん私のことです)

ナチス宣伝相ゲッべルスは「嘘も百回言えば本当になる」と言ったそうですが、このゲッベルスの言葉を忠実に実践しているのが統一協会です。
大人だけではありません。統一協会系の学校では宗教の教科書まで作り、純真無垢な子供達にも同時性再臨論を教えているようです。

この同時性再臨論を刷り込まれると「今が終末であり、終末にはメシヤが再臨する」と言う思考から抜け出すのが困難になります。
「文氏がメシヤでないなら誰がメシヤなのか?」と考えるようになるのです。
同時性の刷り込みが効果を発揮すると、「まだ再臨されてない」「再臨されないかも知れない」とは考えないのです。

確かに世界中で、自分がメシヤだと宣言しているのは文氏だけかも知れません。
しかし原理では、イエス様は十字架で死ななければユダヤの王になったと言います。
もしも同時性が正しければ、文氏は生きていますから、韓国の王(大統領)にならねばなりません。
王(大統領)になれなくても、民族を統一し平和と繁栄をもたらすのが、(原理で教える)メシヤではないでしょうか?

それができないから、自分は平和の王だ神自身だと、宣伝にお金をかけているだけではないでしょうか?
宣伝やサッカーやホテル経営やリゾート開発にお金を使う前に、貧困に苦しむ世界の子供達の為に、お金を使う考えはないのでしょうか?
そのようにお金を使う事が、神様の願いだと私は思います。

統一協会をキリスト教の異端と見るのは間違いです。
聖書解釈の違いで異端扱いされるのなら、むしろ誇れるかも知れません。
何故ならイエス様もユダヤ教の異端でした。
しかし聖書の権威を利用して、聖書を歪曲した嘘を教え、勝手に捏造した歴史を教えるのは、キリスト教と言えないどころか、まともな宗教のすることではありません。
カルトと言われるのも当然でしょう。